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	<title>語り継ぎたいこと</title>
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	<description>戦時中の生活など、語り継ぎたいことです。</description>
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		<title>東京大空襲</title>
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		<pubDate>Tue, 01 May 2012 06:26:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[戦時中の生活]]></category>

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		<description><![CDATA[東京大空襲の頃の市民の生活は戦争一辺倒でした。なんでも、お国にためでした。国のいうことが、全て正しいと信じて行 [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://www.tokyo-sensai.net/">東京大空襲</a>の頃の市民の生活は戦争一辺倒でした。なんでも、お国にためでした。国のいうことが、全て正しいと信じて行動するのが、優秀な国民だといわれていました。国は戦争には、必ず勝つといっていて、国民は神社に、足繁く参拝して「必勝祈願」をするように奨励しました。</p>
<p>国はまた、空襲に対する備えを指導し、住民を集めて訓練もしましたが、この方法は、いろいろと疑問が生じる方法でした。この疑問をハッキリ口に出すと、警察から声がかかるので、みんな黙って従っていました。そして、いざ空襲になったら、防空壕に入って、ジットしていて、敵機が飛び去るのを、待つだけでした。</p>
<p>一方空襲から逃れるために国は疎開（移住）を奨励しました。普通は家族単位の疎開ですが、学校単位の疎開も、国が先にたって、推進しました。これは空襲の被害が多くなると、予想された大都市や、工業地帯の国民学校の生徒が、対象でした。学校単位で疎開したので、子供達の親は付添っていません。子供達は、身の回りのことは、何から何まで自分でしなければ、なりませんでした。さらに、食事の準備や、風呂焚きなどの、共同作業も待っていました。戦争が終って自宅に帰った子供の中には、苛酷な運命が待っていました。</p>
<p>最後の書いたのは、空襲のなかでも、特異な事件として、東京の近郊で、旅客列車が銃撃された事件です。やっと動き出した車内で、乗客が昼食を食べ始めたときに、攻撃されたのです。</p>
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		<title>その頃の世の中</title>
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		<pubDate>Mon, 21 May 2012 03:23:27 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[戦時中の生活]]></category>

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		<description><![CDATA[戦時中の生活は、戦争を遂行して、この戦争に勝利することを、目的としていました。工場での生産は、軍需物資が優先で [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>戦時中の生活は、戦争を遂行して、この戦争に勝利することを、目的としていました。工場での生産は、軍需物資が優先で、生活に必要な商品も。町からドンドン姿を、消して行きました。まして生活に直接に必要でない物、例えば女性の装身具などは、売っていませんでした。もし、持っているので、これを付けて街を歩いただけでも、「贅沢は敵だ」という、スローガンで白い目で見られ、ときによっては、「戦争に協力しない非国民だ」と、後ろ指を差されました。</p>
<p>成人した男の人は、ドンドン戦地に連れていかれて、その後を埋めるために、女性や、歳が中学生以上の子供達は、学業を中止して工場に進出しました。農村でも男手のいない農家には、その土地の子供達が、勉強を止めて手伝いに行きました。仕事の無くなった先生達は、引率者として子供達と、一緒に工場などに行き、作業をしながら、子供達の面倒を見ていました。刑務所に服役中の囚人も、看視付きで脱走出来ないような、工場に連れていかれて、作業しました。</p>
<p>戦争に日曜日はないという、国の変な理屈で、週休零日制、早出、残業は当たり前でした。「<a href="http://www.youtube.com/watch?v=BH35klHoXx0">月月火水木金金</a>」という、題名の海軍の軍艦内の生活を歌った歌が、ラジオから流れていました。女性の社会進出はめざましく、例えば、駅では、改札掛から、切符を売る出札掛、体力を必要とする、小荷物掛、さらに車掌、運転士と知らぬまに、女性の職場になっていました。たまに見かける男性は、年寄りか、体に故障のある人だけに、なってしまいました。</p>
<p>子供達は、ラジオから流れて来る、こんな歌を、口ずさんでいいました。「太郎さんも、花子さんも同じこと、心は立派な兵隊さん、頑張りましょう、勝つまでは、欲しがりません、勝つまでは」。</p>
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		<title>空襲に対する備え</title>
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		<pubDate>Tue, 12 Jun 2012 21:28:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[戦時中の生活]]></category>

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		<description><![CDATA[国は国民に、空襲に対して、どんな備えをしたらいいのか、指示しました。まず「灯火管制」です。これは夜間、家に中の [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>国は国民に、空襲に対して、どんな備えをしたらいいのか、指示しました。まず「<a href="http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/category/categoryArchives/0700000000/0702000000">灯火管制</a>」です。これは夜間、家に中の電灯の光を、外に漏らさないように、雨戸を閉めるか、遮光カーテンを貼るようにと、指示しました。これは、漏れた光が上空を飛んでいる、飛行機から見たら攻撃されるからと、いうのがその理由した。それを聞いた人達は、昼間飛んで来て、上空から写真を撮って、夜、空襲に来た時は、最初に「照明弾」を投下して、これの照明を利用して「焼夷弾」を落とすから、そんなことしても、無意味だと思っていました。</p>
<p>この話で困ったのは、鉄道や、自動車でした。今と違って、夜間「無灯火」で走れといわれたのですから。</p>
<p>空襲されて、焼夷弾を投下されて、火災が発生したときの、消火訓練もしました。主役は残され、老人と主婦達です。消火用水は、溜め水か、井戸水です。この水をバケツに入れて、一列に並んでリレーして、火災を起こしていると、想定した家屋のそばまで送り、数少ない男性が、梯子を掛けて、火元に水をかけるのです。</p>
<p>実際に火災が発生していなので、炎から発生する、放射熱が無いので、出来るのですが、実際に火事になったら、炎から発生する、放射熱で近寄れないはずです。熱くてそば近付けません。人間の力で、バケツに入った水などでは、炎に届きません。</p>
<p>それでも、備えあれば、憂いなしという理由で、江戸時代と同じように、表には、防火水槽を設置して、そのままでは危険だから蓋をして、その上にバケツを置くようと指示され、全ての家で実施しました。だが、夏はこの水の中に、ボウフラが発生し、羽化して「蚊」が刺すので、痒くて困りました。</p>
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		<title>空襲になったら</title>
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		<pubDate>Mon, 23 Jul 2012 21:57:41 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[戦時中の生活]]></category>

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		<description><![CDATA[空襲は、殆どが夜でした。夜寝ていて空襲になる、いま住んでいる家が被災する恐れがあるので、すぐに外へ出られるよう [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>空襲は、殆どが夜でした。夜寝ていて空襲になる、いま住んでいる家が被災する恐れがあるので、すぐに外へ出られるように、寝巻などに、着替えをせずに、昼間着ている衣服のままでで、寝ていました。空襲、敵機襲来の情報源はラジオです。ラジオの放送に耳を、傾けていました。通常の放送が、突然中断され、しばらく待つと、緊張したアナウンサーの声が、入って来ます。「東部軍管区情報、東部軍管区情報・・・・・」と、早口でしゃべり出します。そのときの、敵機の位置や、その飛行機が目指しているであろう、予想された進路が放送されます。「また、今夜もか」といって、自宅から逃げる準備です。やがてサイレンが鳴って、警防団（今の消防団）の人達が、メガホンを持って自転車で、「空襲警報発令」と叫んで、町内を回ります。</p>
<p>それを聞いた人達は、自宅から、避難します。行先は、防空壕です。いまでいう核シェルターのようなものです。ただこれを。自宅の床下や、庭に造った粗末なものでした。湿度が高く、光はローソクですから、換気は悪く、夏は暑いし、長期間ここに入っていることは出来ませんでした。</p>
<p>やがてサイレが鳴って、警防団が、「空襲警報解除」いって、周って来ると、「ヤレ、ヤレ」といって、防空壕から出ました。ときには、そのとき、東の空が、明るくなっていたことも、ありました。この空襲が、いつのまにか、毎晩の日課になってしまっていました。</p>
<p>外にいて、空襲にあったら、身を守るために、飛行機から見えないように、物陰に隠れること、いつも持って歩いている、<a href="http://www.kokusen.go.jp/news/data/n-20100901_1.html">防災頭巾</a>を冠ることでした。いまの防災頭巾の元祖です。近くに、公営などの防空壕があって、空いていたら、利用してもよいと、いうことになっていました。</p>
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		<title>集団学童疎開</title>
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		<pubDate>Wed, 15 Aug 2012 20:48:33 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[戦時中の生活]]></category>

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		<description><![CDATA[空襲で、大勢の人達が亡くなりました。国では、この被害が子供達にまで及ぶのを心配して、子供達だけをまとめて、避難 [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>空襲で、大勢の人達が亡くなりました。国では、この被害が子供達にまで及ぶのを心配して、子供達だけをまとめて、避難されせることにしました。これが「集団学童疎開」です。これは表向きの理由で、子供達がいなくなると、将来兵隊がいなくなるので、それで子供達を、温存するのだろうと、いっていた人達もいました。</p>
<p>これは、いつも<a href="http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kusyu.htm">空襲</a>される、大都会や、工業地帯の住んでいる子供達を、空襲の恐れのない、近くの農山村に、家族から離して、学校の先生が引率して、学校単位で、疎開（移住）させたのでした。疎開先の住居は、人数が多いので、収容力があっって、住んでいる人が、少ないということで、主にお寺などが利用されました。</p>
<p>この疎開の対象になったのは、昭和１９年（１９４４）の実施開始のときは、国民学校（小学校）、３年生以上６年生までした。その上は、工場労働者として、特に工業地帯は必要でした。翌年４月には、１、２年生も疎開することになりました。</p>
<p>引率して来た先生達は、学業だけでなく、寝食も共にしたので、子供達の面倒もみました。昼間は住んでいる、お寺を学校にして授業をし、放課後は、子供達が出来ることは、なんでもやらせました。子供達にとっては、いままでしたことの無い仕事を、させられるました。自分の衣服の洗濯はもちろん、食料品の買出し、食事の下ごしらえ、巻割り、風呂の水くみ、風呂焚き、あちこちの掃除、空き地の野菜作り、等々、先生達も、自分の家族とは、離れての生活でした。</p>
<p>子供達が出来ないのは、敗れた衣服の繕いでした。そのまま着ているのを見かけた、地元の女性が時々来て、繕ってくれたそうです。また履物は殆どが下駄でした。減ってしまって履けなくなっても、補充出来ませんでした。これはやはり地元の好意で、藁草履を提供してもらいました。一番困ったのは、ノミとシラミが発生したことでした。薬剤が手に入らなかったところでは、やむおえず放置しました。</p>
<p>戦争が終って、自宅に戻った子供達の中には、思いもよらない運命が待っていました。空襲で両親や兄弟が亡くなっていたのでした。</p>
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		<title>湯の花トンネル</title>
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		<pubDate>Tue, 11 Sep 2012 23:10:50 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[戦時中の生活]]></category>

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		<description><![CDATA[このトンネルは名前「いのはな」と読みます。東京都八王子市にあり、神奈川県との県境のすぐそばで、JR中央線の高尾 [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>このトンネルは名前「いのはな」と読みます。東京都八王子市にあり、神奈川県との県境のすぐそばで、JR中央線の高尾―相模湖間にあります。高尾を出て列車が最初に入るトンネルです。中央道と圏央道の八王子ICと並んでいます。次に入るトンネルは、延長が２５７４ｍある、小仏トンネルです。</p>
<p>昭和２０年８月５日１２時過ぎにこのトンネルに向かって、高尾（当時は浅川）から相模湖（当時は与瀬）に向かって走っていた、旅客列車、新宿発長野行、第４１９列車（普通旅客列車）が、このトンネルの入口で艦載戦闘機のP51から銃撃を受けて、死者６５名、負傷者１３３名を出したのです。それまで、中央線は、空襲による被害を受けて、前日は走っていませんでした。この日もこの列車の前を走る列車３本が、運休になっていたのと、車内は殆どの人達が、大きな荷物を持っていたので、混雑していました。それでも新宿を定時に発車して、浅川まで来ました。浅川で停車中に空襲警報が発令され、発車を見合わせました。止まってから一時間近くたつと、乗客から「早く出せ」と怒鳴られ、列車の遅延がさらに増えるのは、機関士や駅にとっては、不名誉なことなので、遮蔽物の無い駅に停めて置くよりは、トンネル内のほうが安全だろうと、１時間遅れの１２時１５分頃発車しました。</p>
<p>最初の<a href="http://www.kmine.sakura.ne.jp/kusyu/resyakubaku/yonohana.htm">湯の花トンネル</a>までは４分、次に小仏トンネルまで６分、後に８両の客車を引いた電機機関車は、最初に通る湯の花トンネルに向かって、上り勾配の線路をユックと、上り始めました。車内ではやっと走り出しのと、それぞれの目的地に、少しずつ近づいていくという、安堵で、なかには昼時とあって、持ってきた弁当を、広げる人もいました。</p>
<p>この列屋が湯に花トンネルに、入る直前に、戦闘機から銃撃されたのでした。列車は先頭の機関車と一両目と二両目の真ん中がトンネルに入ったところで、止まってしまいました。この理由は二説あって、銃撃で電線が切れて、停電したことと、このトンネルは短くて、列車全体を隠ぺいすることが出来ないので、機関車など多くの車両か空襲で被災し、不足しているので、大事にするようにいわれているので、機関車を温存そるために、機関士が止めたというのです。それで、トンネルに入れなかった、客車が標的になってしまったのでした。</p>
<p>いまは、複線になっていて、このトンネルを、上り列車が走っています</p>
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		<title>美濃焼について</title>
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		<pubDate>Mon, 01 Oct 2012 16:26:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[美濃焼について]]></category>

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		<description><![CDATA[岐阜県は美濃和紙、関の刀工に代表される地場産業が県の経済を支えています。 その地場産業の一つである土岐市、多治 [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://www.pref.gifu.lg.jp/">岐阜県</a>は美濃和紙、関の刀工に代表される地場産業が県の経済を支えています。</p>
<p>その地場産業の一つである土岐市、多治見市、瑞浪市、恵那市を中心とした岐阜県南東部を産地とする美濃焼は、伊万里焼、瀬戸焼、備前焼等の著名な焼きものと肩を並べる国内焼物の一大ブランドであり、美濃焼の生産地の一つである土岐市の陶器の生産量は日本一です。また、土岐市、多治見市、瑞浪市、恵那市を合わせた美濃焼全体の生産量は、日本全体の陶器の生産量のシェアの半分以上を占めています。</p>
<p>日本の陶器産業の中心の一端を担う美濃焼は平安時代に作られた須恵器を始まりとして、鎌倉時代に本格的な陶器生産が始められました。</p>
<p>安土・桃山時代になると、美濃焼の代表的な焼物である志野、織部に代表される美濃桃山陶が生産されるようになり、美濃焼は最盛期を迎えました。</p>
<p>以降、陶器の一大産地となり、昭和に入るとは焼物の芸術性は薄れ、大量生産が可能なように制作は機械化され、現代に至ります。　</p>
<p>美濃焼の大半は,機械化による大量生産の既製品に移行しましたが、現代でも美濃焼は,荒川豊蔵(1894-1985)、加藤卓夫(1917-2005)、加藤幸兵衛(1893-1982)等の芸術性の高い焼物を制作する作家たちを輩出しています。また、1000年近い伝統を持つ美濃焼の技術は、陶器の器のみならず、タイル、ファインセラミックスと呼ばれるセラミックス製品等に生かされ、現代に於いては元の陶器の器と異なる形になって、発展を続け、日本経済を支えています。</p>
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		<title>美濃焼の歴史</title>
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		<pubDate>Thu, 15 Nov 2012 16:14:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[美濃焼について]]></category>

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		<description><![CDATA[岐阜県の美濃地方では、土師器、須恵器といった古代からの伝統を受け継ぐ上薬を使わない焼物が制作されていました。  [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>岐阜県の<a href="http://www.minokanko.com/">美濃地方</a>では、土師器、須恵器といった古代からの伝統を受け継ぐ上薬を使わない焼物が制作されていました。</p>
<p>鎌倉時代に入ると、上薬である釉薬を使用した焼物が制作されるようになり、山茶碗、古瀬戸、灰釉、鉄釉という焼物が生産されるようになりました。</p>
<p>安土・桃山時代に入ると、茶の湯の流行により、茶の湯に使用する陶器の制作が美濃焼でも開始され、灰釉を改良した灰志野、また灰志野を改良した志野が開発されました。さらに、著名な茶人であった古田織部の好みのデザインであったとされる織部焼も制作され、美濃焼は全盛期の時代を迎えました。この時代には、生産性を上げるために、九州の唐津の技術を取り入れた焼成する窯がいくつも連なった連房式登窯が作られ、生産性が飛躍的に向上しました。</p>
<p>江戸時代に入ると、美濃地方では主に日常生活に使用する焼物が大量に生産されるようになりますが、生産された焼物は有名な産地の焼物をコピーしたものが多く、美濃焼の独自性は失われました。江戸時代末になると陶器質の焼物だけではなく、磁器も生産されるようになります。　</p>
<p>明治時代に入ると、磁器に絵付けをする商品が多く制作され、海外にも輸出され、美濃焼の絵付けの技術の高さは称賛されました。　</p>
<p>昭和に入ると、生産は機械化され、国内用に大量に生産されるようになり、現在では、日本全国で使用する半分以上の陶器が、美濃地方で生産されています。また、美濃焼の技術は、器だけではなく、タイル、ニューセラミックの開発にも生かされています。</p>
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		<title>美濃焼の特徴</title>
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		<pubDate>Tue, 18 Dec 2012 05:12:45 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[美濃焼について]]></category>

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		<description><![CDATA[美濃焼の産地では、古くから問屋制度が確立しており、多くの製造者、問屋が存在してきました。そのため、様々な物流ル [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>美濃焼の産地では、古くから問屋制度が確立しており、多くの製造者、問屋が存在してきました。そのため、様々な物流ルートがあり、お客さんからの多種多様な要望に応えるために、様々な色、形態の商品が生産されています。</p>
<p>食器はもちろんのこと、仏具にいたるまで、生活に必要なものは全て美濃焼の産地で生産されているといっても過言ではありません。</p>
<p>美濃焼の産地で生産される焼物の特徴として、商品の多種多様性が挙げられますが、それは同時にその種類の多さ故に、焼物であればなんでもある、裏を返せば、これといった特徴がないというのが美濃焼の特徴とも言えます。　</p>
<p>また、もうひとつの特徴として生産されている製品が各地域ごとに特化されているということも挙げられます。例えば、土岐市の駄知地域では、どんぶり、同市の下石地区ではとっくり、多治見市の市之倉地区では杯というように、各地区ごとに商品を特化して生産しています。</p>
<p>更に、その地域ごとの商品作りは作業ごとに分業化されており、絵付け専門にする業者や焼物ある特定ののパーツを作る業者など、かなり細かく分業化されています。細かく、仕事を各業者に分けることにより、各業者は専任で各の仕事に集中することができ、効率よく焼物が生産することができ、コストダウンや生産量のアップにもつながりました。</p>
<p>そうした生産形態によって、大量の製品の生産が可能になり、美濃焼は全国有数の焼物の産地に成長していくことになります。</p>
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		<title>美濃焼の産地</title>
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		<pubDate>Mon, 21 Jan 2013 02:41:37 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[美濃焼について]]></category>

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		<description><![CDATA[美濃焼の産地は、土岐市、多治見市、瑞浪市、恵那市を中心とした地域で生産されています。また、美濃焼の産地は13も [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>美濃焼の産地は、<a href="http://www.city.toki.lg.jp/wcore/index.htm">土岐市</a>、多治見市、瑞浪市、恵那市を中心とした地域で生産されています。また、美濃焼の産地は13もの地域にわたって存在します。</p>
<p>以下に、各市ごとに産地を紹介し、簡単にそれぞれの産地の紹介をします。　</p>
<p>土岐市では、土岐津、泉、肥田、土岐津西部、下石、妻木、駄知の9地域で生産が行われています。以下に簡単に各地域の主要生産品を簡単に記します。土岐津地域では、マグカップや湯のみが湯のみ,泉地区では、煎茶碗、湯のみ、志野織部小鉢、急須など,肥田地区では、約20軒の製造者によって主に和皿、鉢などが生産されています。土岐津西部地区では、煎茶、マグカップ、小鉢などが、下石地区では、徳利などが、妻木地区では、和食器が、駄知地区では、どんぶり、和食器が主に生産されています。　</p>
<p>多治見市では、笠原、滝呂、市之倉、高田の4地域で生産が行われています。以下に簡単に各地域の紹介をします。笠原地区では、主に飯茶わんが、滝呂地区では主に皿、市之倉地区では、杯が、高田地区では、釜めし容器、源蔵徳利、湯たんぽの容器が主に製造されています。　</p>
<p>瑞浪市では9軒の製造者によって、強化磁器及び、ボーンチャイナ等の和洋食器の生産が主に行われています。　恵那市では、約10軒の製造者によって、ディナーウェア等の洋食器が主に生産されています。　</p>
<p>ご紹介しましたように、各地域ごとに、ある商品に特化して生産していることが分かりますが、近年では安価な輸入商品の出現により、地域ごとにある商品に特化するという生産方法を見直そうという動きがあるそうです。</p>
]]></content:encoded>
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